(本記事は、1990年4月15日にChianti 30周年を記念して刊行されたヒストリーブック、「キャンティの30年」より転載しています。)
グローバリスト川添君を偲んで―井上清一
私達はイタリヤのミラノからニューヨークを巡回して組織された偉大なる人類の天才、ルネサンスの巨人のすべてを再現する“レオナルド・ダヴィンチ展”の東京開催を企画、上野池之端に実現した。
ゆがめられてゆく聖戦の終結を求むる動きの時代に、彼は故渋沢敬三氏の知遇を得、終戦と共に、東西文化交流の拠点としての光輪倶楽部の設立に参加、戦後の平和文化の新しい歩みの促進に専念する。
一方、彼の親友キャパは大戦の報道写真の鮮烈さをもって、死を恐れぬ報道者とルーズベルト大統領の讃辞を得、戦火がやがておさまる頃、かつてのパリ時代の仲間や、若い世代を集結してニューヨークに本部をおくマグナム写真通信を主宰する。
その頃、高松宮妃殿下の日本の絹の道の復興への熱意の展開に協力、日本固有の伝統的絹織物を携え、パリのモードの中枢クリスチャン・ディオールに接触する。
長い大戦の荒廃のヨーロッパに、女性の優美さを呼び戻したディオールが、常により美しいものを探求する川添君の熱意に共鳴して、その日本の絹を彼のコレクションに採りいれ、羅生門、歌麿等のエレガントな数点を創りあげる。
戦後のフランス・ファッション界の第一人者として出現したディオールは、フランス繊維業界に君臨するレオン・ブサック氏がディオールを中心にルエット社長、シュザンヌ・リューリング女史をパブリック・リレイショナとして結成した企業体、その日本進出を、フランス国営のエール・フランスの東京支社と協力、実現にいたらせたのも川添君の努力によるものであった。
この時結ばれたディオールとの友情、シュザンヌ夫人との親交が、川添君と戦後のパリの服飾の世界、社交界との切れることのない深い関係をもたらすのであった。
1954年、高松宮妃と川添君の招待のすすめに、訪日を準備するディオールが、彼の一切の行動をさだめる星占いの予兆の故、東の旅を一時断念、その翌年急逝する。その後をついだ若い才能がイヴ・サンローランで彼はディオール店を離れて独立した後も、川添君を兄のように慕って、彼がパリに訪れる度に歓待するのだった。
その頃、日本古典芸能の新しい進路、普遍性を探求する過程で、日本舞踊の吾妻徳穂、藤間万三哉との交流が始まる。
終戦後間もない日比谷の有楽座で上演された“静物語”、応仁の乱で荒廃した京の都の神泉苑での静御前の舞に象徴される平和への希求と美の憧憬をうたいあげたこの楽劇には、先代吉右衛門、後に白鸚を名のる幸四郎、歌右衛門に吾妻夫妻、音楽に琴の宮城道雄、ピアノの原智恵子、そして美術は藤田嗣治画伯という豪華さであった。
このような企画からの展開が1954年、ニューヨーク、ブロードウェイに開幕する“アヅマ・カブキ・アンド・ミュジシアン”の全米公演となり、1955年、イタリアはジェノバに近いネルビの夏の芸術祭でスタートする世界公演となるのである。
アメリカ興業界の第一人者、ソル・ヒューロックと協力してのアメリカ公演以来、この古典舞踏劇の幕前には、先づ簡単なストーリーのダイジェストが用意され、舞台衣装姿の日本女性が英語でナレートするのであった。
このイタリア公演のナレーターに川添君に懇願されたのが、当時イタリア彫刻界で名声の高いエミリオ・グレコに師事し、すぐれた弟子の一人であった岩元梶子であった。英語にも堪能であった彼女は、そのまま、スコットランドのエジンバラ国際芸術祭参加、それに続くコベントガーデン劇場、日本の芸能人が初めて舞台をふむロンドンで最も権威のある檜舞台でもナレーターを見事につとめ上げる。
シンガポールやマレー半島での日本軍の捕虜の待遇等で、日本及び日本人に対する悪感情のさめやらぬ中で、この一行の眞摯な芸術が、舞台のステージ・ハンド達の冷たい氷の心を溶かし、ロンドンの新聞に暖かい讃辞が溢れ、時の日本大使西春彦氏に非常な感謝をうける。
この若い世代の熱情と才気が鼓動する梶子と結ばれて川添君の愛情の遍歴、素晴らしい第二の人生が展げられていった。
このアヅマ歌舞伎公演の準備で、ニューヨークへ飛んだ彼は当時のことを次の様に懐旧する。
世界の情報の波に挑戦しているかのように巨きく空にそびえ立つ、ライフ・アンド・タイムスビルの中にキャパの弟コーネルを見つけ出す事は容易だった。
今やニューヨークのライフ本社で枢要なスタッフとして人生の重みを身につけ、私を豪華なフランス料理屋に招待したり、妻のエディと共に家庭に迎えて、私の旅愁を憩はせ、戦前のパリ生活を回想させてくれたりした。
一方、私の仕事だった“アヅマ・カブキ”の公演—日本古典美の実験と冒険—について、コーネルは私をニューヨークの第一線で活躍する文化人や芸術家に、それが彼等の合言葉の如く、“兄弟だよ、だから頼む”とプレス、ラジオ、TV等の宣伝、連絡に親身の世話をしてくれた。それがどれほど、あのカブキ・ダンスのブロードウェイ公演に際して、単なるエキゾティシズムを超えた“世界の求める最も新しいもの”としての成功を創ったことであろう!と。
(文楽アメリカ公演にて 桐竹紋十郎氏と 1963年)
その年の春、キャパは川添君の仲介で毎日新聞社の来賓として日本へ飛ぶ。
羽田の空港でキャパを待つ間、歴史の歳月が2人を隔てた深い距離、それを果して埋めることができるかと不安を感じるのだが、空港で再会する2人は、昨日パリで別れたばかりの如く、固く抱きあうのだった。
(親友ロバート・キャパと 1954年 光輪閣にて)
私は、この2人の生涯の友情を、パリの昔から見守ってきて、彼等のように似通った人格が、東と西の地理的距離にも拘らず存在したということが全く奇跡としか思われないほどであった。
キャパが、あれ程、北アの砂漠の地雷等にも限りなく慎重に難を免がれ、スペインの内乱以来数々の危地の中を生き抜いて来ながら、まったく予期しない仏印の戦線で、帰らざる犠牲となった後で、コーネルから私は次の様な取急ぎ便りを受けとった。
昔から“キャパのママ”はマザー・グース——アヒルのお母さんとよばれ、沢山の子供が一体何人いるのか見当もつきかねるほどでした。その子供の一人だったキャパがこの世界に残していったもの、それは多くの人達が永いこと論議し語り合うことでしょう。
しかし私達家族にとって、彼のことは至極明瞭でした。
彼は私達家族のものを友達として扱い、友達を自分の家族ときめこんでおりました。
彼は、私達すべてによって共有さるべき遺産を残して逝きました。——心の暖かさ、友達への思いやり、そして彼と共に過ごした忘れ難い日々の追憶など——。
このコーネルの言葉は、1970年富士グループの大阪万博参加に際して、総合プロデューサーを依頼されて以来、日夜より新しく、より美しく、より未来的価値を探求して止むことなく、しかし、自分の命数の限りを予見したのか、愛と平和を歌う若者のミュージカル“ヘアー”の日本公演のプロモートに生命をかけ、そして、私達後に残されたものに、何ものにも代え難い追憶を遺して急逝した川添君にまったくそのままあてはまる言葉の如くである。
コーネルが合言葉のように“兄弟だ。だから頼む”と言っている。ところが、日本の友人であれ、外国の友達であれ、川添君に接すると皆本当に兄弟となるのだった。
そして若い者は皆、まったく彼を自分達の兄のように対するのであった。
パリのサンローラン然り、“ヘアー”出演の若い人たちの皆が彼を兄と、父として慕い、柩の前であの夜、涙を流して彼の生まれの星座アクエリアス——水瓶座——の歌を合唱するのであった。
彼の兄弟となり、家族会議の交はりをした中には、ピエール・カルダンもその一人であった。彼がパリのカルダンの店を訪れると、よくカルダンは彼の服を作っては、彼の意見を求めたりした。一方川添夫人がカルダンでドレスを誂らえると、“私にはちゃんと請求書を出して、川添の服は、カルダンの寄贈になるの”と彼女の不服気な話をよく聞かされたのであった。
彼の訃が伝えられると、その逝去を嘆いて海外の友人達から真情こめた弔電がよせられる。イヴ・サンローラン、ピエール・カルダン、マキシム社長ヴォーダブル、リューリング夫人、毛皮のレヴィヨン夫人、イタリアからは“日本との邂り合い”の著者フォスコ・マライニ、アメリカからは“ハリス・ストーリー”の製作者、ジーン・フランキ。
パリ、マキシム社長ルイ・ヴォーダブル氏夫人
思いがけない、耐えがたい報せ、唯々悲嘆の極み、かくも誠実にして
能力に溢れ、信頼のすべてをかけた友、紫郎の逝去を悼み、この悲しみを共に分かちたえしのびたいと思うのみ、心からの愛情をこめて。
イヴ・サンローランとピエール・ベルジェ
親愛なる梶!かくも心豊かなりし友を失い、悲しみにたえず、眞心こめて貴女の心情に想いをはせつゝ・・・・・・。
(春日商会相談役)
ー「キャンティの30年」(1990刊行)P.18-25より