【川添兄弟への手紙】

 

(本記事は、1990年4月15日にChianti 30周年を記念して刊行されたヒストリーブック、「キャンティの30年」より転載しています。)

川添兄弟への手紙―村井邦彦

 

川添象郎 光郎様     1990年1月1日

前略

キャンティの30周年誌に原稿を依頼されていたんだけど、遅くなってゴメン。言い訳じゃないけれど何回か書き出していたんだ。でも書きたいことがあまりにも多いのと、こんなこともあった、あんなこともあったと思い出にふけってばかりいてまとまりがつかないまま新年を迎えてしまった。

今、気をとりなおして書き始めたところだ。パリに居るんだけど、最近はファックスという便利なものがあるから締め切りまでには、編集の長澤さんに送ることができると思うよ。そういえば長澤さんは福沢幸雄にちょっと似た顔をしているね。

ファックスで思い出した。昔、川添さん(浩史氏)とパリで会った時、ケ・ヴォルテールの食堂で御馳走になったことがある。僕が先に帰国するので、タンタン宛に手紙を持って行くよう頼まれた。食事の後、サラサラと書いた手紙をもらったのだけれど、なんだか昔っぽくて良かったな——。

川添さんがパリで暮らしていた戦前は、今に比べると通信も不便で、日本に帰る友人に手紙を託していたに違いない。川添さんはとても進歩的な人だった。けれど、通信のコストに関しては昔の価値感を持っていたんだ。

象ちゃんも光ちゃんも知らないと思うけれど、僕は1回だけ、川添さんに怒られたことがあるんだ。象ちゃんが「エル・フラメンコ舞踏団」の歌手をスペインに探しに行っていた時、僕が日本で手伝っていたでしょう。何か急ぎの連絡があってベビードールからスペインに電話をかけていたら、川添さんが通りかかって、「君、どこにかけているの?」と聞くから「スペインですよ」と答えたら「もっと緊張して仕事をしろ」と言われた。つまり国際電話なんかかけなくても電報とか、もっと安いコストで通信することを考えろっていうわけだ。僕は国際電話魔でよくかけるんだけど、KDDの請求書を見る度に川添さんのことを思い出すんだ。

 

「エル・フラメンコ舞踏団」で日本に来た歌手は、確か力道山の仇役だったプロレスラーと同名でオルテガと言ったよね。開店前の午前中からキャンティの地下にドカッと大股広げて座って、ウィスキーをストレートで飲んでいたのが印象的だった。言葉が通じないから僕も彼も会うとニコッとするだけだった。

オルテガ、ダンスの長嶺ヤス子さん、象ちゃん、幸雄そしてかまやつさんも一緒だったと思うけれど、川添さんとタンタンが黛敏郎さんの家でフラメンコを披露しようと皆で行ったこと、憶えている?フラメンコには堅い木の床が必要でしょう。黛家はじゅうたん張りで踊れるところがなかったんだ。それで黛さんは作曲の時に使っていた製図板のような物を床に置いた。長嶺さんが一発ドンとステップを踏んだら穴があいてその会はお流れになった。なんだかおかしくておかしくてよく憶えているよ。

あの頃は楽しかったな。みんな何かに夢中になっていた。

象ちゃんはギター三昧の暮らしだったね。象ちゃんが借りていた青山の木造アパートはフラメンコ仲間の集会所になっていて毎日、朝までギターの合奏をやっていたね。明け方になるとベッドに3人ソファに2人、残りは床に折り重なって寝ていたね。歯も磨かず、デンタルフロスもしなくてよかったんだ。あの頃は。

光ちゃんは、朋友マーチューと軽井沢の山の中に会員制クラブを作ったり、六本木にディスコのはしり「スピード」を開店して、金策に走りまわっていた。

栴檀は双葉より香しだね。今や立派な経営者だものね。

福沢幸雄は僕達の仲間じゃなんてったって大スターだったな。レーシングドライバーというだけでカッコ良い時代だったけど、着るもの、食べるもの、何に関しても一歩先を行っていて皆の尊敬を集めていた。洋服のデザインもやっていたね。エドワーズだったかな。

世の中“平凡パンチ”と“アイヴィ・ルック”が席巻していた時、幸雄はヨーロッパ風の服を作っていた。もっともそのへんのファッションの元祖は川添さんで、僕達も皆川添さんの真似をして、青山一丁目の角にあった森脇洋服店で“サイドベンツ”のあるヨーロッパ風の服を作ったものだ。流行歌風に言えば「サイドベンツをひらひらさせて」闊歩していた。おかしいね。最近の服は真中も両脇も閉じてあるのが多いけれど、このあいだサンローランへ行ったら、“サイドベンツのひらひら”を売っていたのでなつかしさのあまり一着買っちゃった。ともかく幸雄が事故なんかに会わないで生きていたらどんなことをしでかしていたかわからない。残念でしょうがない。

かまやつさんはスパイダースに夢中だった。あんなに売れるとは思わなかったね。初期のスパイダースにはカントリーウェスタンで使うスチールギターが入っていたんものな。つまりロカビリー、カントリーからビートルズやローリングストーンズに変る時期の先駆者だったんだ、スパイダースは。かまやつさんはそのカジ取りをしていたんだ。

ミッキー・カーチスはロカビリーの頃から大スターだったけど、その頃はもっと洗練された音楽を求めていた。ビンソンと言う当時としては魔法のようなエコーマシンを手に入れて喜んでいたっけ。

柴田良三は今はゴルフに夢中だけれど、その頃はラグビーをやっていた。学校を出てからファッションに夢中になって勤めていた証券会社をやめてしまった。最近、長旅を飛行機で一緒にした時に聞いたんだけど、証券会社がくれた給料は2万円で、その時サンローランのネクタイが2万円したんだそうだ。1ヵ月分の給料はたいていネクタイを買って喜んでいたんだって。

羽根田公男は拳法とギターに夢中で象ちゃんとよく合奏していたね。当時からホテル経営に夢を燃やしていた

山田和三郎は写真に夢中。他にヤマさんは何に夢中になっていたか知らないけど、いつもキャンティに居て皆の兄貴格だった。

当時の仲間のことを書き出したらきりがないね。

学校の友達、音楽の友達、あらゆる種類の友達とその女友達のことを全部書いたら大河小説になってしまう。それにまださしさわりのあること、例えば家庭の不和の原因になるようなことがあるかもしれないから、書かぬが花というものだ。

 

川添さんとタンタンは僕たちをよく可愛がってくれた。本でしか見たことがないような人達、世界的な芸術家や文化人を直接紹介してくれた。川添さんやタンタンの人脈が僕の後の仕事にどれだけ役に立ったか言いつくせない。

僕が学生の身分で毎日キャンティで食事ができたのは川添さんとタンタンが“ある時払いの催促なし”システムを僕に適用してくれたからだ。

“ある時”はほとんどなかったから、僕がキャンティでお金を払って食べるようになったのは学校を出て自分でかせぎだしてからだった。

光ちゃん、30周年を記念して川添浩史記念奨学食事制度を始めたらどうだろう。

ともかく川添夫妻には本当にお世話になった。いろいろなことを教わった。

タンタンは生まれつき優れているうえにイタリアできたえられた素晴らしい審美眼を持っていて、あらゆることに視覚的な美しさを優先させる人だった。そういう人のそばに居て“この色は美しい”とか“この形は美しくない”とか言うのを聞くことができたおかげで、美しいものを感じとる力を養えたように思う。

川添さんには「美は力だよ、君」なんていうことも教わった。

ちょっと外国語を勉強すれば世界中の人々と理解しあえることを教わった。

友人を大切にすることを教わった。どんな権威にもひるまない心を教わった。

川添さんが亡くなる前日、病院へお見舞いに行ったら、「いいことを教えてやろう」と言った。「なんですか」といくぶん緊張して尋ねたら「この病院の隣りのそば屋はうまいぞ」とのことだった。それが川添さんとかわした最後の会話になるとは夢にも思わなかった。

 

象ちゃん、光ちゃん、キャンティは川添さんとタンタンが創った。これはただのレストランじゃない。どうぞ良き伝統を未来につなげて下さい。

        草々

(作曲家)

 

 

ー「キャンティの30年」(1990刊行)P.173-177より

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