【キャンティの歩み】子供の心を‥‥‥

(本記事は、1990年4月15日にChianti 30周年を記念して刊行されたヒストリーブック、「キャンティの30年」より転載しています。)

キャンティの歩み―村岡和彦

「子供の心を‥‥‥」

 

昭和45(1970)年は、川添家にとっては波乱の年になった。

 

ベトナム戦争のさなかであり、10年前のキャンティ開店のときと同様、街には反安保の動きが激しく、ことに若者たちの心は荒んでいた。

こういった世情に訴えるかのような、アメリカのロック・ミュージカル『ヘアー』の上演権を、川添浩史、象郎の父子は松竹と提携して前の年に取得。暮からこの年のはじめにかけて、渋谷の東横劇場を舞台にプロデュースした。象郎は音楽監督も務めている。

『ヘアー』は反戦、革命、ロック・ミュージック、ドラッグ・カルチャーと、当時の若者たちの心情世界を描き秀逸だった。梶子はパリに出向き、古着屋回りをして、出演者たちの衣装を買い揃えた。「一家総出」でこの『ヘアー』に打ち込んだのだった。

舞台は大きな反響を呼び、連日満員という盛況のうちに、3ヵ月の東京公演を終えた。ところがその打ち上げパーティーでひと騒ぎあり、つぎの大阪公演は中止となった。それどころか、じつはその頃、浩史は病んでいたのである。肝臓ガンだった。病床にあり、余命いくばくもないという末期的な状態だった。

 

「『ヘアー』の公演前に、新橋の料亭で酒をくみ交しました。日本では唯一の文化的国際人でした。公演には杖をついて、病院からお見えになったんです。一度だけ」(松竹社長・永山武臣)

 

この年はまた、万博の年でもあった。大阪千里で日本万国博覧会が賑々しく開かれた。それを遡る4年前、パリ以来の各万博を知り、国内外に友人・知己の多い浩史は、富士グループ・パビリオンの総合プロデューサーを任されている。事務局長として、開幕まで苦労を共にした富士銀行常任監査役・植村攻は、初対面のときに象徴的な言葉を聞かされた。「万博というのは大変な仕事です。あなたか私のどちらかが必ず死にます」と川添はいってのけたのだ。

植村はその思い出を語る。

「礼儀正しい言葉遣いのきれいな方でした。それでいて明るくざっくばらんで、いきなり女性の話をされたり。何しろ自由人ですから、こちらはサラリーマンなのに、土日、夜中でも自宅に電話がかかってくる。キャンティに駆けつけると、芸術家、文化人の人たちとパビリオンについて夜遅くまで議論がつづく。あの情熱にはそれこそうれしい悲鳴をあげたものです」

 

そして4年後、「たまたまキャンティの前を通りかかったら、川添さんが店の前でひとりぽつんと立っていました。その姿がとても寂しそうで気になったんです。しばらくして入院されました」(元読売新聞文化部、美術評論家・海藤日出男)。『ヘアー』の千秋楽は昭和45(1970)年の2月末、万博は3月に開幕した。どちらに立会うことなく、川添浩史は1月11日に息を引き取った。享年57歳。

 

彼は屋敷を構えていたとはいえ、それは常に借家だった。「自分の家を持つというのは、死を意味する。水はいつも同じ場所に止まっていれば、腐ってしまう。水は流れていないといけない。自分の生き方も同じで、どこに行っても生きていけるような人間でありたい」というのが、彼の「住」に対する考えだった。——ここでひと言いえば、筆者は昨今の株、金、絵画、あるいは土地にと走る拝金主義の横行に否定的である。こういった風潮に躍らされ、ひと財産つくりたいと狂奔する人たちとは、彼はまったく別の次元に生きた。そこのところが、今回のルポを手がけてみたいと思ったひとつの理由である。

 

川添が死去した年の暮、キャンティの常連客でもあった作家・三島由紀夫が、楯の会の4人の会員と共に、市ヶ谷の自衛隊に乱入。クーデターを訴えたが失敗し、その場で割腹自殺した。

事件の2日前、三島は会員とキャンティに来て、ブランデーを飲み、「最後の晩餐」を行なっている。彼の唯一のSF作品『美しい星』は、この店でミッキー・カーチスに聞いた話を基にしたものだ。

 

梶子はといえば、浩史の死後やつれが目立つのだった。海藤日出男は「すっかり元気がなくなりました。川添さんの羽根の下にいてこそ、自由にやれたわけなんでしょう」と述べ、ベビードールで梶子と共に働いてきた竹山公士も「まったく別人のようになってしまって。いろいろなものへの情熱が無くなり、目の光が失せて、うつろな感じでした」ともらす。

まるで浩史の後を追うように、46歳の若さで、4年後の昭和49年(1974)5月17日、心臓発作により梶子もまた帰らぬ人となった。その死について、田辺エージェンシー社長・田辺昭知は言葉に詰まり「いまだに語れないんです。気取っているわけでも何でもなくて、まさに悲報としかいいようがない」とのみ答える。そして今回取材した人たちは口々に「こんな美しい人が、世の中にいるのかと思った」「容姿だけではない、内面から出てくる魅力」「お世辞抜きで、あれほどの女性に会ったことがない。これからも会えない」と、彼女の早すぎた死をいまも心の底から悼むのである。

 

ソフトでダンディーだった川添浩史。感覚に優れ童女のようだった梶子。共に生涯、「子供の心を持った大人」でありつづけた。いまふたりは、文京区音羽の護国寺、川添家の墓に眠っている。

 

昭和46(1971)年には、浩史が関係してきた光輪閣が解体されることになった。また梶子のベビードールも51(1976)年に閉鎖された。「ひとつの時代」が終わりを告げたといえよう。

 

(キャンティ本店2階 右に今井俊満氏)

 

それ以後、川添ファミリーの長男・象郎は、キャンティの「第二世代」の仲間である作曲家・村井邦彦とレコード会社アルファを興し、音楽プロデューサーとしてYMOやユーミンを売り出した。併行し、空間プロデューサーとしてインテリアなどの企画にあたり、それと関連するが、輸入家具のレンタル会社インターフォームを設立、社長を務めている。

次男・光郎は春日商会の経営に専念し、キャンティ・グループともいうべく、店舗増、関連会社の充実に心をくだいている。その一貫として、昭和51(1976)年には、アルカフェキャンティを開店したが、これもまたカフェバーの「はしり」といわれた。西麻布店、コーヒーショップ・カフェドパリ、中国料理店・メトロポール等を新たに開き、名古屋や山形にまで出店するようになった。

これらの発祥の地、開店当時の雰囲気をそのまま伝える飯倉片町の店は、小さなビルで、経営効率は悪いはずである。しかし父の血を受け継いだのか、採算はさておき、川添光郎はこの遺産を自分の代には改築する考えがないらしい。

作曲家・村井邦彦は「いまでも飯倉のキャンティは自分の家。僕が破産しても、とりあえず食生活だけはあの店で大丈夫だと思っています」といって笑う。村井の目算は、こんごもかないそうである。 ——文中敬称略

(フリーライター)

 

 

ー「キャンティの30年」(1990刊行)P.111-115より

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